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そこで僕の目は開かれ、本当の自分を見ました。僕は神さまが見ているように、自分を見たのです。僕は満たされていると 思っていましたが、現実はそうではありませんでした。僕の生活に本当に必要だったのは神だったのです。

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どうしたん。。。グラント?
Author:
Grant Norman

僕の名前はグラントといいます。南カリフォルニア出身です。日本には2009年12月から住んでいます。日本語がそれほど上手いわけでは ありませんが、頑張って話すので聞いてください。

まず最初にこれは普通のチラシではありません。僕は何も売ろうとしていないし、別にお金が欲しいわけではありません。また誰 かからこれを配るよう給料をもらっているわけでもありません。僕がこの冊子を配っているのは僕自身に驚くべきことが起こったので、 出来るだけ多くの人に伝えたいからです。

これは僕の人生が180度変えられた物語です。

僕はアメリカに生まれ、非常に一般的な家庭に育ちました。学校に通い(あまり楽しくはりませんでしたが)、友達と時間を過ごして、 アメリカで人気のあるスポーツ(スケートボードや、BMXバイク競技)も行い、日曜日毎に教会に行っていました。

アメリカでは毎週多くの人が教会に通います。キリスト教はアメリカの主な宗教となっているので、多くの人が一生に何度かは教会に 足を踏み入れます。アメリカ人の多くは、日本人が仏教を見るような形でキリスト教を見ています。人生でそれしか知らず、他の宗教も 知らず、「キリスト教文化で生まれたから」自分たちの宗教だと思っています。といっても人々はキリスト教が何を教えているか、また 真実かどうかということをよく考えたことがありません。

アメリカではキリスト教が人気があり、両親も信じていて、それを幼い頃から教えられてきたので、ある時期まで信じていました。 ですが本当にクリスチャンになることが何かを僕たちは知りませんでした。僕たちは「ただそうなっているから」受け入れて、それ以上の ことを考えることがありませんでした。

これが僕の考えでした。僕はキリスト教しか知らなかったので、自分はクリスチャンだと思っていました。誰かが聖書を読んでくれたり、 イエスの話を聞かせてくれると僕は信じました。僕はキリスト教について教えてくれる人に完全に頼って、聖書を全く読みませんでした。 それは読んでもよく分からなかったし、それほど興味を引くものでもなかったからです。

成長していくにつれ、宗教よりも面白いものを見つけるようになりました。十代の頃、大きな虚無感に襲われて、人生で何の満足も 得られないと思うようになりました。かつてはまっていたゲームや、スポーツ、友達などは何も満足をもたらしませんでした。何かに 囲まれている時は良かったのですが、独りになると虚しさが襲ってくるのです。

虚しさを感じる理由が何かあるはずだと僕は思いました。そして他の人は楽しんでいて、一度も経験したことが無いことがあったので、 それを試せば、本当の幸せが得られるんじゃないかと思いました。例えば、自分に合う仕事を見つけて、お金があって、車があって、 多くの友達と彼女がいたならば、満足感が得られると考えました。

一方で、この時期に『ブラック・メタル』と呼ばれるジャンルの音楽に出会いました。このジャンルの音楽は本当に知っている人は少なく、 実際に聴く人も少ないものです。ですが僕は少しずつこのブラック・メタルとその内容に魅せられていきました。ブラック・メタルとは とてもうるさい音楽で、混沌としていて、極端なヘビー・メタルのような音楽です。そのルーツは北アメリカや南アメリカ、ヨーロッパに ありますが、スカンディナビア出身のバンドが活動し始めてから人気が出てきました。このブラック・メタルを演奏する人たちは教会に火を 付けたり、さらには殺人を犯すなど、犯罪を行うことで悪評を得ていました。そのブラック・メタルの歌詞はいつも暗やみや、憎しみ、 反宗教(特に反キリスト教)、戦争や人種差別など、思いつく限りのネガティブなことが含まれていました。その歌詞のメッセージは、 自分が自分の神になるとや、ただ自分のためだけに生き、欲しい物は何としても手に入れ、強者となり弱者を虐げ、その生き方を誰にも 邪魔されるなというようなものでした。

もちろん、最初僕はこのバンドが広めているメッセージを受け入れませんでした。僕はただ音楽そのものを楽しんで、何か共感できるものが いくつかあるとしか考えていませんでした。ですがこの音楽は次第に影響力を増していきました。この音楽を聴いていると自分の欲しい物を 何でも奪い取って良いように感じてきたのです。これが大きな欺きでした。ブラック・メタルは今まで教えられてきたことと、全く正反対の ことを教えていました。僕はただ音楽を楽しむつもりで聞いていて、頭の中では、この2つの相反する世界にいることが可能だと 思っていました。

そうして僕は自分に良いと思われる生活を送っていました。次第に自分が自分の神であるかのように思い始めました。僕は自分の望むものを 何も拒むべきではないと考え始めました。そうすれば幸せがやって来ると思ったのです。そして18歳になった頃、友達とお酒に酔うように なりました(アメリカでは実際21歳になるまで飲酒禁止です)。飲酒は少しの間楽しみを与えてくれましたが、以前から抱えていた虚無感は 消えることはありませんでした。そこで僕は他のものを追いかけ始めました。仕事を見つけて、車を手に入れましたが、少しの間しか満足 できませんでした。

今度は友達と多くの時間を過ごし、新しい友達を作ることに時間を使いました。僕は忙しくしていましたが楽しく過ごせました。ただ少しの 間です。次に友達のひとりはドラッグがいかに気持ち良いかということを教えてくれたので、試してみるとそれは本当でした。ですがその 気持ち良さもドラッグが切れてしまうと無くなり、今までのように虚しさが襲ってきました。

試そうと思っていたリストの最後はガールフレンドでした。僕は彼女がいれば、欠けていた最後のピースが埋められるんじゃないかと 思いました。そして彼女が出来て、楽しい期間を過ごしましたが、それはたったの1週間だけでした。それでもその彼女が自分に 合っていないだけだと思い、自分に合う彼女を探しに出かけていました。

僕は自分を満足させてくれるものを全部手に入れました。僕は仕事やお金、友達、彼女を手に入れ、趣味をとても楽しみました。僕は 時間や努力、お金をそのようなものにつぎ込みました。食べ物や友達、彼女につぎ込まれなかったお金は、大量のブラック・メタルの アルバムや、バンド関連の物、ライブを見るために消えていきました。

僕は今こそ完璧で、自分の生活が充実していると自分に言い聞かせていました。ですが、僕にはいつも間違っていたひとつのことが ありました。神さまが自分の生活に満足していると勘違いしていたのです。

当時は僕の生活がどのようにかして、神さまに受け入れられていると本当に思っていました。そのような状況でしたが、僕は祈り、 神がいることも認めていました。僕は神について多く知っていて、教会にも月に数回は行っていました。ですが自分の良心では、自分の していることが神さまの言葉とは反対だと知っていました。酔ったり、プライドや暗やみ、暴力を称賛する音楽を聴くことは罪深いこと でした。ですが、自分が神について多く知っていると思っていたので、また他の人よりも悪くないと思っていたので、自分は特別だと 思っていました。したがってその時点で、ある種の満足感を覚えて、ほぼ幸せに浸っていました。

しかしある出来事がありました。僕と一緒にブラック・メタルを楽しんでいた親しい友達がいたのですが、その人がある夜電話をかけてきて、 大事な話しがあるから家に来ても良いかと尋ねてきました。僕がドアを開けると彼女は非常に動揺しているように見えました。その人は リビングに入ってくると泣きだしました。

その友達は、自分の生活や聴いていた音楽、自分のしていたことが完全に間違っていたと言いました。自分の生活が間違っていたのに、 それでも大丈夫だと自分を騙していたというのです。彼女は自分の生活を変える必要があると感じていました。さらに彼女は僕の生活も 正しくなく、神に反抗していると言いました。まず僕は驚き、何を話しているか分かっているのかと彼女を疑いました。ですが神の基準と イエスの聖さを説明するにつれ、彼女が真実を語っていることが分かってきました。そこで僕の目は開かれ、本当の自分を見ました。僕は 神さまが見ているように、自分を見たのです。僕は満たされていると思っていましたが、現実はそうではありませんでした。僕の生活に 本当に必要だったのは神だったのです。そして僕たちが神の言葉、聖書を受け入れる時に、神さまは僕たちの生活に入って来られます。

これを説明しましょう。聖書の言葉は穀物のようで、その他のメッセージはわらのようだと聖書に書かれてあります。これは何を意味 しているのでしょう。わらと麦との違いは何でしょう。大きな違いは穀物には栄養があるということです。わらはただ満腹感を与える だけです。人は穀物を食べて生きられます。人間はわらを食べることもできますが消化することができません。ただわらを食べるだけでは 何の栄養も無いのです。神の言葉は真理であって、僕たちに栄養を与え、いのちを与えます。

一方、わらを食べても、穀物を食べても食べた後には満腹感を覚えます。そしてある人たちは食べた後の『満腹感』によって食べた物が 良いか悪いかを判断します。その人たちは食べた物が実際に何であるかによってではなく、食べた後の感覚によって判断してしまいます。

ひとつ実例があります。僕が最初に日本に来た時、みんながコンニャクを食べるように勧めてくれました。僕はそれが何かを知らなかった ので、一度試してみようという気になりました。そしてついにある人がコンニャクをくれて一口食べてみると、「うーん、別に味が無いな」 という感じでした。そこで、「コンニャクは栄養豊富で、ビタミンも沢山入っているに違いない」と僕は考えました。ですが、コンニャクの 何が特別なのかをそのくれた人に聞いてみると、コンニャクにはカロリーが無く、何の栄養も無いのが特別だとのことでした。コンニャクは 満腹感をすぐに与えてくれるけれども、体重が増えることが無いのです(何も得るものが無いからです)。ただコンニャクは満腹感を 与えてくれるだけなのです。

数か月して、とてもお腹が空いているときにレストランに入りました。その時はまだ日本語を少しも読めなかったので、メニューを 見てただおいしそうに見えるものを頼みました。頼んだメニューはとても大きなオムライスに見えました。頼んだ物が来ると、僕は それが大量のコンニャクの上に非常に薄い卵焼きが被せられたものだと分かり、とてもがっかりしました。それを食べて、味も良かった のですが、自分の選んだ食べ物に落胆していました。味は悪くなかったものの、値段が高くて、しかも中身の95パーセントはただの コンニャクで、何の栄養も無いことが分かっていました。食べた後には満腹になりましたが、その日に必要なエネルギーを何も得ることが できませんでした。

もし誰かがコンニャクだけを毎日食べ続けるなら満腹感を覚えるけれども、とても不健康になるでしょう。僕は別にコンニャク自体を 嫌っているのでもなく、今は好きですが、コンニャクだけを食べて生きていけるとは思いません。

これが僕の物語とつながっています。僕は人生で多くのものを試して、それらのものは短い間満足を与えてくれるだけでした。ですが 本当の問題を解決していませんでした。それはあたかもわらをいつも食べ続けて、次もまた同じ食事を食べればOKだと考えていたような ものでした。ですが僕は問題を無視して、本当に栄養を得ることをせず、飢え死にしそうな状態でした。

僕が抱えていた問題は、聖書が穀物と呼ぶもの、神のことばを通して明らかにされている真理を食べていなかったということでした。私は 神のことばや神ご自身について何も知りませんでした。それどころか自分自身を神にしていました。僕は自分の生きたいように生き、欲しい 物を手に入れ、良い物が悪い物より多ければ、そしてまた自分自身をクリスチャンと呼んでいれば大丈夫だと思っていました。ですが何も 大丈夫ではなかったのです。

僕が日本で神さまとの関係について聞くと人はたいてい、「仏教徒ですよ。年に数回お寺にも行っていますよ」、「私は日本人だから 仏教徒です。グラントさんはアメリカ人だからクリスチャンなんでしょう」と返事が返ってきます。多くのアメリカ人もこのように 考えています。人はキリスト教徒の家に生まれたからクリスチャンだと思っていますが、誰も生まれながらのクリスチャンはいず、神さま との正しい関係に入るためには「新しく生れなければならない」と聖書とイエスさまは語っています。それは人生で行った神のことばに 反することすべてから悔い改めるということです。悪いことをした時にそれを分かっています。単純に自分の名誉や夢のために生きるのを やめ、自分たちを造ってくださった神に立ち返ると僕たちは新しく生れます。そして神の御霊が心の中に入り、神のことばにいのちを 吹き込み、生きるべき道を示してくれます。

イエスはご自身についてこう言われました。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり 父のみもとに(言い換えれば天に)来ることはありません」イエスは真理を知っているや、道を知っているとは言わずに、自分自身が真理で あり、道であると言われました。彼はただ宗教的な教師たちのように道徳を教えていたのではなく、彼自身がいのちそのものだったのです。 そして誰もイエスを通らなければ神と正しい関係には入れません。ですが多くの人が人生の生き方は他にもあると考えています。

ここ日本で話す多くの人が、良い高校に行き、また良い大学に入り、そして良い会社に入り、結婚して、子供を二人ほどもうければそれが 『良い人生』だと言います。それが目標となっているのです。ですが、これらすべての条件を満たした人と話していても、その人たちはその 条件を満たしていない人たちと同じくらい虚しさを抱えています。その人たちの話しを聞いているとかつての自分を思い出します。その 人たちはただわらだけを食べて生きようとしています。教育制度全体はわらです。それは『おかず』として上手くいくかもしれませんが、 神のことばと神の与えられるいのち無しには、この人生で何も満足することができません。当然ながら教育に頼っても永遠のいのちは 得られないのです。

誤解しないでほしいのは、勉強を熱心にすることも、良い大学に入り、良い仕事に就き、家族を持つことに何ら悪いことはありません。 それらは良いことです。ですが、それらは背後にある問題を解決することができません。聖書の神との本当の関係を持つことなくしては 誰も満足することはできません。

これがその夜友達が来て話してくれて、気付いたことでした。その時すべてを理解することはできませんでしたが、人生を変える必要が あるということは分かりました。なので部屋にあった数百枚の音楽のアルバムやブラック・メタルのバンドから買ったTシャツすべてを 捨て去りました。僕は神のことばに反して行ったすべてのことを神に悔い改めました。そしてその夜から自分の栄誉のためではなく、 神のために生きることを心に決めたのです。

そこから何かが違いました。僕はついに生活に満足するようになったのです。それは人生で初めて『穀物』を食べたからです。それから 聖書を読み出すようになり、聖書の語っている内容も理解し、読むのが楽しくなりました。その時から聖霊は僕の中に入り、僕を 教えてくれています。また聖書を学び始めて、聖書に書かれてあることはすべていのちを与える真実だということに気付きました。その 時から昔の虚しさは消え去っていきました。

その夜から僕の人生は完全に変わりました。そしてこのことを自分の中だけに留めていてはいけない、他の人にも知ってもらいたいと思う ようになりました。特に心や考え、人生を変えることが可能だと聞いたことが無い人たちに伝えたいと思うようになりました。このために 日本に移って来ました。出会う人たちに神のことばを伝え、神さまとの正しい関係に入ることだけがこの人生、また次の人生における唯一の 希望であると伝えるためです。

日本ではもう車も、沢山のお金も、友達も、かっこいい仕事も、彼女もいませんが、それらが与えることのできなかった平安と満足を得ています。

僕がみなさんに伝えたいことはこれです。すべての人が罪の中で生れました。これは僕たちの生活を見ると明らかです。心の中で何が正しい ことか知っていますが、それを実行しません。僕たちは伝統を守ったり、お寺参りをしたり、『良い人となる』、和を保つことによって逃げ ようとしています。ですがこれらのことは神に対して犯した罪の償いとはなりません。神はすべての人に悔い改めを命じています。それは イエスのことばを無視してきた人すべてを裁く日がやって来るからです。僕たちは本来持っているべき神との平和を持っていません。 僕たちが罪から立ち返らず、自分だけのために生き、イエスを自分の主人としなければ、人生で本当の平安や満足を得ることはできません。 さらに悪いことに、もし神に立ち返らなければ死後に天国には決して行けず、自分の罪の代価を地獄で支払うことになってしまいます。 神をその他の『もの』と置き換えてしまうことは、聖書が語る『わらを食べる』ことと同じです。わらを食べるのはやめましょう。穀物を 食べましょう!穀物のほうがはるかにましです。良い知らせはイエスさまがすべての人と関係を持つことを願っておられることです。イエス さまに立ち返るとき、すべての罪を赦されます。自分を自分の神とすることをやめ、自分を造ってくれた神に従うなら救われます。

長い文章だったと思いますが、ここまで読んでくれて感謝します。これを読んでいるうちに、「新しく生れるとは何だろう?」「罪とか 悔い改めとは何?」「イエスさまってどんな人?」「聖書とはどんな本で、どうして信じる必要があるのか?」や「神の律法って何?」 という疑問が出てきたと思います。実際、聖書について多くの人が抱いている誤解があります。そして僕も聖書を自分自身で読むまで何が 間違っているのか分かりませんでした。ですがもっと知りたいと望まれるなら、どんな質問でもお答えします。

ここで話した内容をもっと知りたいと思われるなら、ぜひメールを送ってください。英語を話せなくても日本語で書いてもらえれば分かる ので、日本語で返事を送ります。メールを送ってもらえれば、ひとつひとつ読んで返信します。そして実際会って話しをしたいと思われる 人も、時間が多くありますので、メールで教えてください。

グラント
col4koshien@gmail.com

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