建築家イエス
私の友人の牧師は建築業を行っています。最初のものは神戸の近郊に建てた三階建ての教会でした。その教会建築がほぼ終わりかけた頃、 阪神大震災が起こり、周辺の家々が倒壊しました。ですが彼の建てた教会は感謝なことに倒れずに立っていました。それから彼は日本で 色々な家や学校を建て、フィリピンでも建築を行いました。面白いことに彼の建てる家はどこにあろうと、典型的なアメリカ中西部の スタイルをしています。竹林を通っていくと家があり、いきなり「ドロシーの家」が降り立ったかのように立っています。カンザス州でも ないのにです。とはいえ、同じ建築家や設計者が作ったものは、共通点が多いものです。それはすべてのものの創造主である神さまも同じです。
「また、ラオデキヤにある教会の御使いに書き送れ。『アーメンである方、忠実で、真実な証人、神に造られたものの根源である方がこう言われる」
黙示録3章14節
三位一体を否定しようとする人たちはこの箇所を指して、イエスはただ神に造られた最初のものに過ぎないと言います。しかし根源という 言葉は「アルケー(arche)」で、「長」や「かしら」を意味する言葉です。もちろんこの言葉から英語の 「アーキテクト(architect=建築家)」という言葉が来ています。イエスを通してすべてのものが存在に 至ったため(ヨハネ1章3節)、イエスを全被造物の偉大な建築家と呼ぶことができるでしょう。そしてイエスさまの設計は、創造のみわざ、 新創造のみわざ(新しく生れること)、再創造のみわざ(この世全体が新しくされること)において見ることができます。この記事では創造 のパターンを見ていきます。そして創世記1章・2章を、神がたましいを救われる時、新創造の「型」として見ていきます。
茫漠として何も無い
「地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた」
創世記1章2節
神は美しい世界を創造したでしょうか?初めはそうではありませんでした。ヘブライ語では「トーフー(tohu)」 と「ボーフー(bohu)」、茫漠として、何もなかったとあります。トーフーとボーフーには、「空虚」や「混沌」、 「形が無い」などの意味が含まれています。ギリシア語訳では「アオラトス(aoratos)」とあり、文字通りには 「見えない」という意味です。簡潔にいうと、水が地球全体を覆っており、何も見えなかったということです。
これは神が新創造をされる時とも同じです。神さまは良い人を選んで、その人をより良い人にするのではなく、取るに足らない者、完全な罪人を 選んで、内側から新しく創造されます。チャールズ・スポルジョンはこの真理が伝道者にとって、大きな励ましになることを指摘していました。 絶望した伝道師がこうつぶやきました。
「福音を伝えようとしているのに、あの人たちは何も分かっていない!何の理解も無い!彼らは暗やみの中にいて、大衆文化の中に神を 指し示すものはひとつもない!」
実質的にそのような人たちは「茫漠として何もない」状態です。ですが、何か問題があるのでしょうか?そのような状態から神さまは創造のみわざを 始められました。
次の二つの文章の類似性を見てください。
B) 神の霊が 水の上を 動いていた
これは多くの聖書箇所に見受けられる典型的なヘブライ的パターンです。二つや時には複数の文章が対句を成しています。たいていの場合、対句を 成している節を比較し、対照し、類似点や相違点を見つけることによって、深い洞察が与えられます。これはよくミドラッシュを発見する時の 「何が何と関係があるか」ということを発見する鍵となります。
- やみ ―― この場合は神の霊と対照関係にあります。どちらも水の上にありました。初めに 地の上には単なるやみがありましたが、神の霊が創造のみわざを始めていきました。
-
あり ―― 「動いていた」と対照関係にあります。暗やみは動くことが出来ません。たいていの
場合、何世代にも渡って、父親が大酒飲みなら、息子も大酒飲みになります。母親が短気で、夫や子供にガミガミ言うような人なら、おそらく娘も
そうなるでしょう。茫漠として何もないように、古い性質は動きたがりません。一方で神の霊は動きます。神は私たちを変えられます。
私たちは自分の罪を気づかされ、悔い改めに導かれ、思考を新しくされます。このパターンは神がイスラエルを見つけられた時にも見られます。
「主は荒野で、獣のほえる荒地で彼を見つけ、これをいだき、世話をして、ご自分のひとみのように、これを守られた。鷲が巣のひなを呼び さまし、そのひなの上を舞いかけり、翼を広げてこれを取り、羽に載せて行くように」
(申命記32章10節-11節)
- 荒地 ―― イスラエルの最初の状態を示しています。これが「トーフー」で創世記1章2節の茫漠と 同じ言葉です。
-
舞いかけり ―― 神の臨在が彼らの上にあったことを示しており、創世記1章2節で使われている
「動く」と同じ言葉「ラハフ(rachaph)」です。
創造の記述では、神の霊は水の上を動き、神の子らを混沌とした状態から導き上らせようとされていました。イスラエルの創造において、神は エジプトにいて、茫漠として何もない状態であったイスラエルの上を舞いかけり、ひなのように抱いてました。ひなが出来ることは 限られています。ひなは餌を与えられ、世話をされ、育ちます。幼い信者は何か特定のことをすべきかと尋ねます。最初の答えはシンプルです。 ただ信じるだけです(ヨハネ6章28節-29節)
-
大水 ―― 水 大水(深み)とは原始的な海を指しており、テホム(
tehom 押し寄せる大量の水)という言葉が使われています。この単語の語根は「フーム(huwm)」であり、
「騒ぎ立つ」や「激しく動く」という意味を持っています。これはキリスト無しのこの世を表しています。
「なぜ国々は騒ぎ立ち、国民はむなしくつぶやくのか」
(詩篇2篇1節)
民族は民族に対して立ち上がり、国と国は争います。キリスト無しの世は、ひとつの革命から次の革命へと動いていきます。戦争は続き、ひとつの流行が 終われば次の流行というように、平安でいることができません。
創世記1章の「水」という言葉は複数形で、実際は二重の複数形です。神は渦巻く海を見られて、誰が神のもとに来て、誰が来ないかを知っておられました。 すぐに両者は離されることになるのですが、ここでは暗やみと光の分離を見てみましょう。
第一日目:光と暗やみの分離
「神は仰せられた。「光があれ。」すると光があった。神は光を見て良しとされた。神は光とやみとを区別された」
(創世記1章3節-4節)
形もない状態の世界から、神はここで数々の分離を行っていきます。最初のものは光と暗やみの分離です。これは新創造においても真実です。
「この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった…すべての人を照らすその まことの光が世に来ようとしていた…この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。しかし、この方を受け入れた人々、 すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった」
(ヨハネの福音書1章4節、5節、9節、11節、12節)
この箇所ではまことの光が「すべての人を照らしていた」とあります。ではすべての人が光の下にいるのでしょうか。明らかにそうではありません。それ ではすべての人を照らすというのはどのような意味なのでしょうか。天は神の素晴らしいみわざを語っています。自然界は私たちの設計者、創造主である 方の知性と力を物語っています。それだけでなく、各個人の良心はこの世が堕落していること、自分の罪、裁きの必要性を証明しています。神はすべての 人にその光を与えられました。光の方に向く者はより多くの光を受けます。ですが、大半の人が光を無視します。人は自分自身を「悪い光」、つまり真実 の光の中で見たくないのです。サングラスをかけているように、人は真実や神、神の正しさ、自分たちの罪を無視してしまっています。
救いの第一歩は、神が各個人に真理を啓示する時にあります。それは単に「おつりを多くもらい過ぎてしまったけど、なぜあの時に返さなかったのだろう」 ということかもしれません。神は私たちの罪を明らかにし、応答を要求します。心が開かれている者に対しては、神はより多くの光を与え、神に完全に頼る ようにされます。そうでない者はただ光を無視してしまいます。
第二日目:水の分離
『神は仰せられた。「大空が水の真っただ中にあれ。水と水との間に区別があれ。」神は大空を造り、大空の下の水と、大空の上の水とを区別された。その ようになった。神は大空を天と名づけられた…』
(創世記1章6節-8節)
科学的に「大空の上の水」が何であったかというのは、興味深い疑問です。大空の下の水は明らかに海です。空の上の水について、多くの人たちが自論を 述べました。ある人は雲、洪水以前の世界を守っていた空にあった特別な水の層だと言います(後に雨となって降り注ぎました)。また別の物理学者は宇宙 の端だと推測します。個人的には水の層であったという見解を好みますが、物質的に何であれ、新創造について重要な事柄を教えています。水とは象徴的に 何を表しているのでしょうか。聖書自身に語ってもらいましょう。
『御使いはまた私に言った。「あなたが見た水、すなわち淫婦がすわっている所は、もろもろの民族、群衆、国民、国語です』
(黙示録17章15節)
天の下の水は「深み」のままで、荒れ狂う海のままです。それはキリストを持たない人、「大バビロン」の影響下にある人たちです。一方で、別の群衆が 存在します。彼らは天で神に賛美を歌っています。
「その後、私は見た。見よ。あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、だれにも数えきれぬほどの大ぜいの群衆が、白い衣を着、しゅろの枝を手に持って、 御座と小羊との前に立っていた」
(黙示録7章9節)
「この後、私は、天に大群衆の大きい声のようなものが、こう言うのを聞いた。「ハレルヤ。救い、栄光、力は、われらの神のもの」
(黙示録19章1節)
「また、私は大群衆の声、大水の音、激しい雷鳴のようなものが、こう言うのを聞いた。「ハレルヤ。万物の支配者である、われらの神である主は王となられた」
(黙示録19章6節)
荒れ狂う海がキリストを持たない人たちを表しているように、天にある水は神の民を表しています。彼らはキリストと共に天の御座に座っています。そうでなくとも、 死んだ後、今御座の前にいます。水の分離は、神の民がこの世から分離されることを語っています。光を見ましたか?まことの光を受けましたか?それならこの世 から離れなければなりません!交わりに入り、創造主であり、救い主である神を賛美しましょう。
第三日:海と地の分離
神の預言の計画において、神の民がこの世から分けられると、神の焦点は「その地(ハアレツ)」――イスラエルの地に戻ります。
「神は仰せられた。「天の下の水が一所に集まれ。かわいた所が現われよ。」そのようになった。神はかわいた所を地と名づけ、水の集まった所を海と名 づけられた。神はそれを見て良しとされた」
(創世記1章9節-10節)
この水を集めるというテーマは、終わりの時代における神の典型的なみわざです。ヨエル書ではアルマゲドンについて登場し、マタイ25章32節では終わりの 裁きについて、またイザヤ66章18節では千年王国について用いられています。
幼い信者として私が初めに学んだことのひとつは、キリストの再臨に目を向けるということでした。これは自然と携挙やアルマゲドン、キリストがエルサレム から支配されることを含みます。信者になったばかりの人たちだったテサロニケ教会は次のような評判がありました。
「…あなたがたがどのように偶像から神に立ち返って、生けるまことの神に仕えるようになり、また、神が死者の中からよみがえらせなさった御子、すなわち、 やがて来る御怒りから私たちを救い出してくださるイエスが天から来られるのを待ち望むようになったか、それらのことは他の人々が言い広めているのです」
(1テサロニケ1章9節-10節)
私たちもこうあるべきです。この世は永遠に続くことはありません。国々はアルマゲドン戦争に集まって来、この世は裁かれます。したがって私たちは天に あるものに目を向け、天にある報酬を得ようと努力すべきです。終わりの時代について適切な理解を持つことは、幼い信者にとっては大きな力の源です。 幼い信者は必ずすぐに最初の試練や迫害を経験するようになります。興味深いことに創世記はこの時点で、植物が繁殖すると語っています。
「地は植物、すなわち種を生じる草を、種類にしたがって、またその中に種がある実を結ぶ木を、種類にしたがって生じさせた。神はそれを見て良しとされた。 夕があり、朝があった。第三日」
(創世記1章12節-13節)
「三日」という言葉はたいていの場合復活について用いられていますが、ここでは神の千年王国を予兆しています。
「時が来れば、ヤコブは根を張り、イスラエルは芽を出し、花を咲かせ、世界の面に実を満たす」
(イザヤ27章6節)
「だが、おまえたち、イスラエルの山々よ。おまえたちは枝を出し、わたしの民イスラエルのために実を結ぶ。彼らが帰って来るのが近いからだ」
(エゼキエル36章8節)
「天よ。上から、したたらせよ。雲よ。正義を降らせよ。地よ。開いて救いを実らせよ。正義も共に芽ばえさせよ。わたしは主、わたしがこれを創造した」
(イザヤ45章8節)
神さまはこの世に関して計画を持っておられます。神は国々をアルマゲドンで裁くために集め、その地に御国を建て上げられます。これが神の計画です。 それはあなたの計画と違うかもしれません。自分や自分の夢にとって都合の良いものでないかもしれません。全ての信者は自分の夢をあきらめ、神の 言葉に沿った未来を選ぶよう命じられています。その新しい仕事は本当に神のみこころでしょうか。新しい車を買うべきでしょうか。奉仕と家族の時間の バランスはどこにあるのでしょうか、などです。この種の分離は、神が御言葉と御霊によって私たちの思考を新しくされる時に起こります。私たちが神の 計画に従い、すべての事柄を永遠の価値観に基づいて考えるなら、この世と来るべき世において確実に実を結ぶようになります。
第四日目:天にある光
『神は仰せられた。「光る物が天の大空にあって、昼と夜とを区別せよ…』
(創世記1章14節)
「神はそれらを天の大空に置き、地上を照らさせ、また昼と夜とをつかさどり、光とやみとを区別するようにされた。神はそれを見て良しとされた」
(創世記1章17節-18節)
この時点まで太陽は存在しませんでした。最初にあった光は、神さまからの直接的な光であったことでしょう。一方で神は被造物である天体を輝くよう にされました。そしてただ輝くだけではなく、光とやみを区別するようにされました。神は最初は罪人に罪の意識と義、来るべき裁きについて啓示を 与えますが、私たちが証人になることも望まれています。私たちが福音を伝える時、それは実際に光とやみを区別しています。ある人はあなたの証を 受け入れ、神がさらなる理解を与え、救いに至ります。他の人はあなたの証を受け入れず、ますます頑なになっていくでしょう。受け入れられるか否かに かかわらず、神の証人たちは輝くよう命じられています。家族や友人に証をすることは自然で、新しく信者になった人たちにとって必要不可欠でしょう。 救われて年数が経った信者もそうです。
「彼の子孫はとこしえまでも続き、彼の王座は、太陽のようにわたしの前にあろう。それは月のようにとこしえに、堅く立てられる。雲の中の証人は 真実である」
(詩篇89篇36節-37節)
太陽と月は忠実に輝いて、いつも光を放っています。地球のある部分はいつも光を受けるわけではないのにです。それゆえ皆が私たちの証を 受け入れなくとも、クリスチャンはいつも証となり、他の人に福音を伝える準備をし、熱心になるべきです。
第五日目・第六日目:祝福と繁栄
『神はそれらを祝福して仰せられた。「生めよ。ふえよ。海の水に満ちよ。また鳥は地にふえよ。」夕があり、朝があった。第五日』
(創世記1章22節-23節)
『神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を 支配せよ。」』
(創世記1章28節)
新創造に関係する宝で満ちているとは思いますが、第五日目と六日目の詳細はひとまず置いておいて、ここではこれらの日の主な強調点を見てみましょう。 祝福と繁栄です。
この時点まではすべてが分離でした。私たちは学校では割り算を習う前に、掛け算を習います。一方聖書ではいつも掛け算(増え広がること)の前に、 割り算(分離)があります。キリストは5つのパンと2匹の魚を増やされましたが、その前にそれらを裂かれました。これは新しく生れることにおいても 真実です。最初に光とやみの区別があります。光とは真実ですが、受け入れるのは困難なものです。悔い改めが必要とされます。次に神の民とこの世の 人たちの区別がなされます。古い関係や汚れた繋がりを絶つのです。そして次にこの世の裁きと主の計画を悟るようになります。私たちは何がただ自分 の野望で、何が神さまの計画か見わけなければなりません。自分の野望を明け渡せば、神がご自身の計画を頭と心に置いてくださいます。そして証する 時が来ます。天に住んでいるのは良いことですが、私たちは天と地の間の空間まで降りてきて、この世に光をもたらさなければなりません。友や家族と 別れるのは辛い過程です。すべての信者は、忠実に福音を伝え始めると友人を失います。私たちの時間や持っている物を大宣教命令のために分け与える ことは言うまでもありません。分けて、分けて、分けるのです。ある人はこう言うでしょう。「クリスチャン生活は祝福に満ち溢れたものだと思って いました。牧師も祝福を語っていたのですよ。牧師は100倍の祝福を語っていたのですが、それはどこにあるのですか」
あなたが忠実なら祝福は確実に得ることが出来ます。ですが、まずアブラハムを見てみましょう。
- * 彼は自分の故郷ウルから別れ出ました
- * ハランにて自分の家族と別れました
- * 約束の地にてロトと別れました
- * 自分の子どもたちを分け、イサクの兄弟たちを他の地に送りました
「彼の子らイサクとイシュマエルは、彼をマクペラのほら穴に葬った。このほら穴は、マムレに面するヘテ人ツォハルの子エフロンの畑地の中にあった。 この畑地はアブラハムがヘテ人たちから買ったもので、そこにアブラハムと妻サラとが葬られたのである。アブラハムの死後、神は彼の子イサクを祝福 された…」
(創世記25章9節-11節)
アブラハムはマクペラの洞穴に葬られました。マクペラという言葉の語根である「ペラ(pelah)」は「カファル( kaphal)」から来ており、「重ねる」や「二倍にする」という意味があります。この「プル(p-l)」という音は、 英語のplywood(ベニヤ板)やduplicate(複製)、pliers(ペンチ)という言葉にも見られ、もちろんmultiply(増える)という言葉にもあります。 私たちの霊的な父であり模範でもあるアブラハムは、分離の生涯を送り、繁栄のうちに死にました。実際、彼が約束されていた土地の中で唯一所有して いたのは、マクペラの洞穴だけでした。
「まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を 結びます。自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです」
(ヨハネ12章24節-25節)
これはアブラハムにとって励ましになったことでしょう。彼が忠実に分離の生涯を送った後、「神は彼の子イサクを祝福した」とあります。祝福や 繁栄はいずれやって来ます。私たちがすべきことは神さまの方法でそれを受け取ることです。
また当然、祝福と繁栄には責任がついてきます。それを正しく取り扱うにはクリスチャンとしての成熟さが要求されるでしょう。
第七日目:安息
「こうして、天と地とそのすべての万象が完成された。神は第七日目に、なさっていたわざの完成を告げられた。すなわち第七日目に、なさっていた すべてのわざを休まれた。神は第七日目を祝福し、この日を聖であるとされた。それは、その日に、神がなさっていたすべての創造のわざを休まれた からである」
(創世記2章1節-3節)
この「完成」という言葉は、新創造にも当てはまります。
「あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを私は堅く信じているのです」
(ピリピ1章6節)
分離や試練、繁栄、試みはどれも神の働きが私たちの中で完成されることと並行しています。それが神の働きであって、私たちの働きではないことに注目 してください。ですがそれらが完成すると安息が来ます。神は第七日目を聖とされ、祝福されました。
『信じた私たちは安息に入るのです。「わたしは、怒りをもって誓ったように、決して彼らをわたしの安息に入らせない。」と神が言われたとおりです。 みわざは創世の初めから、もう終わっているのです。というのは、神は七日目について、ある個所で、「そして、神は、すべてのみわざを終えて七日目に 休まれた」と言われました』
(ヘブル4章3節-4節)
「したがって、安息日の休みは、神の民のためにまだ残っているのです。神の安息に入った者ならば、神がご自分のわざを終えて休まれたように、自分の わざを終えて休んだはずです」
(ヘブル4章9節-10節)
新約の安息は私たちが信仰によって入る安息です。私たちは自分の働きや努力によってではなく、神が私たちを完成させてくださるよう依り頼みます。 もちろん神はこの人生でいろいろな良い働きをなされるでしょう。ですが、それは私たちの働きではなく、神の働きなのです。神はその良い働きをも 備えてくださいます。それを実行するための恵みと力を備えてくださるのです。神がそのために栄光を受けられます。この意味において信仰の生活は まことの安息です。ですが千年王国において完全な安息が到来します。
創造のパターンは新創造のパターンと一致します。皆さんがどのステップも飛ばしてしまっていないことを願います。
私たちは
- 光を受けてそれに応答しましたか?
- この世から出て、神の民の一員となりましたか?
- この世における神の計画を受け入れましたか?
- あなたは忠実な証人ですか
- 神は祝福し、繁栄を与えられましたか?そうである場合、それを扱う責任はどう持っていますか?
- 神の安息に入り、自分の肉の性質により神のみこころを達成しようということを止めましたか?
そのようなクリスチャンはなんて素晴らしいことでしょう!御使いが賛美の歌を歌うのも不思議ではありません。
「そのとき、明けの星々が共に喜び歌い、神の子たちはみな喜び叫んだ」
(ヨブ38章7節)
御使いたちは新創造を目にする時も賛美の歌を歌います。
「あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです」
(ルカ15章7節)
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