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すべて罪を犯す者は、不法を行う者である。罪は不法である。

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1 ヨハネ 2:19,21


罪は何?
Author:
Geoff Toole

すべての社会のすべての人はある問題を抱えています。つまり、罪の問題です。罪は不幸や紛争、けんか、争い、戦争、あらゆる悲劇を もたらします。罪のない世界はなかなか想像しにくいものです。多分ほとんどの人は罪のない一日、一時さえ想像しにくいのではない でしょうか。

罪とは何でしょう?すべての人は罪の存在を知っているのですが、罪はいったい何かということについてはさまざまな見解があります。 ある人たちは、「罪とは自分の国の法律を破ること」だと思っています。したがって、国の法律を守っている者は罪人と言われません。

他の人たちによると、罪はもっと個人的なことです。「自分の基準を破ることが罪を犯すこと」だと考えています。たとえば、ある人に 夢があるのに、その人の怠惰のせいで夢を実現できなかったとしたら、その人にとってそれは罪だということになります。

たくさんの人は、罪とは回りの人に対して迷惑をかけることだと思っています。もし自分の生活がまわりの人と違えば、まわりの人の 感情を害する可能性が高いといえます。たとえば、仕事で同僚のみんなが無償で残業をしたら、自分だけ残業をしないのは迷惑になるので、 同僚に対して罪を犯していることになります。もうひとつの例は、会社が脱税しているのを知っていても、知らないふりをすることです。 そのことを公にすると会社の評判は汚されるので、公にすることは罪を犯すことになるという考え方です。

また他の人にとって、罪は心理的なことに過ぎません。脳が悪いことをしたという感じを引き起こしてはいますが、「悪い」ということは 本当にはないと考えます。

実は、これらのどの定義を使っても、私たちは皆罪があるということになるでしょう。これらの定義は全部単に人間の考えから出てきたも のです。私たちは皆自分の基準さえ守れません。しかし罪を説明することについて、これらの定義では十分とは言えません。それぞれの 定義は互いに相容れないものです。

新約聖書の著者の一人は、このように罪を定義しました。

「罪とは律法に逆らうことなのです」 

ヨハネ第1 3:4

律法とは、どの法なのでしょうか。国の法律でしょうか。そうではありません。実は、ヨハネは服役者として、地中海にあるパトモス という無人島にいるときに書物を書きました。

ヨハネの生活はローマ帝国の法律と合いませんでした。
いったいヨハネはどの法について書いていたのでしょう。イスラエルの法ですか。それも違います。イスラエルは礼拝、道徳、衛生について 多くの法律があっても、その法律はイスラエル人以外にはほとんど関係がありませんでした。しかも、ヨハネはユダヤ人に対してだけ書いた のではありませんでした。

ヨハネが語っていた律法は、どの法よりも優れた律法です。つまり神の律法です。神の律法を破るということは神に対して罪を犯すことです。 神の律法は紙の本や石の板に書かれているだけではなく、すべての人の心に書かれています。それは人がその律法を認めるかどうかとは関係 ありません。

そういうわけで、すべての文化のすべての人は一般的に同じ道徳を持っています。次の例を考えてください。

一つの場所であらゆる文化と国からたくさんの人が集められます。
北極からイヌイット(エスキモー)、アフリカから少数民族の人、古代の中国から農夫、古代のアラビアから陶工が集まります。皆の言葉、 文化や宗教は全然違うのに、皆はめいめいの心に同じ神の律法を持っています。アラブの陶工はイヌイットがアラブ人の器を盗んでは いけないと分かっていることを知っています。中国人はアフリカ人が中国人の奥さんを取ってはいけないと分かっていることを知っています。 イヌイットは中国人が殺人すること、嘘をつくこと、他の人を奴隷にすることは間違っていると分かっているのを知っています。

これらの法は神の律法なのです。私たちは皆これらの律法を知っているのに、誰も守らないのです。毎日、神の律法のすべてを破ることは ないかもしれませんが皆は良心で罪を犯したことを分かるのではないでしょうか。

これらの律法は人間の考えから出てきたものではありません。誰も自分が守りたくなく、守れない法律を自分の基準として定めないからです。 これらの法律は自然にできたものでもありません。動物には良心はないでしょう。動物は罪悪感なく、えさを盗んだり他の動物をいじめたり、 殺したりします。

これらの法律は神の律法です。すべての人が心に同じ律法を持っているという事実は、神はすべての人を造られたことを示します。神は ご自分の律法を下さいました。私たちはその律法を破りました。それで私たちは皆死後に裁きを受けます。

群衆に神の律法を説明するキリストの言葉を見てください。

「昔の人々に“人を殺してはならない。人を殺すものは裁きを受けなければならない”と言われたのを、あなたがたは聞いています。 しかし、私はあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てるものは、誰でも裁きを受けなければなりません。」

マタイ5:21、22

また、

「“姦淫してはならない”と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、私はあなたがたに言います。誰でも情欲を抱いて女を見る ものは、すでに心の中で姦淫を犯したのです。」

マタイ5:21、22

言い換えれば、罪は法律を守りながら何ができるか、何ができないかということでなく、心の中で悪を考えることです。行動に移すか、 移さないかの違いは心にある罪の結果だけです。国の法律の目的は、生まれたときから心にある罪の悪を単に制限することだけです。 それは、世界を人々の罪の悪影響から守っています。

私は子どものとき怖がりでした。友達はアイスクリーム、雑誌などを盗んだり、友達の前で先生を侮辱したりしました。私は普段そんな ことをしませんでした。それは、そんなことをしたくなかったからではなく、実はよく悪いことを考えていましたが、先生に怒られるのが 怖かったから、そういったことをする勇気がありませんでした。もし私が怖がりでなかったら、同じ事をしたはずです。

既婚の男性の多くは実際に浮気をすることはないかもしれませんが、時々そんなことを考えてしまいます。絶対ばれないという保証が あったら、もっと多くの男性が浮気してしまうと思います。皆は罪を犯します。神が良心に与えてくださった律法を破ります。約束された 死後の裁きを受けて、神にあなたの心を検査されるときに、何が見つけられるでしょうか。

自分自身を罪から清めようとするために、みんなは自分の決めた程度とやり方に基づいて、努力しています。

ある人は罪を無視して生きています。そんな人は聖書を読めないし、神に祈れないでしょう。自分の罪を表したくないからです。少しだけ でも聖書を読み、自分の悪さを考えれば、自分の罪を認めるほかはありません。イエス・キリストが言ったとおり、

「その裁きというのは、こうである。光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行いが悪かったからである。 悪いことをするものは光を憎み、その行いが明るみに出されることを恐れて、光の方にこない。しかし、真理を行うものは、 光の方にくる。その行いが神にあってなされたことが明らかにされるためである。」 

ヨハネ 3:19-21

また、自分の罪を正当化するために言い訳を考える人もいるでしょう。他の人々比べようとするなどです。普通はヒトラーかそのような 人と。誰でも自分より悪そうな人を見つけることができます。刑務所にいる犯人さえ、金持ちで差別的な裁判官と比べれば自分のほうが いい人だと思っていることでしょう。

聖書には、エデンの園でアダムが神が食べてはならないと言った果実を食べてしまった後で、神がアダムに迫られたとき、アダムは妻の エバが悪いといい、エバは蛇が悪いと言いました。しかし神は三人とも有罪であると宣告しました。

ある人々は宗教的になって、罪を補おうとして、いい行いをします。神は、私たちがいい行いをすることを望んでおられるのは事実ですが、 どんなにいいことをしても、私たちは神の律法を破ったことを補うことができません。いい行いは単に、神に対する当たり前のこと過ぎません。

踏み切りが下りているときにバイクで渡っていたところを、警察官に捕まったと考えてみてください。大きい声で否定しても、役に立ちません。 自分を正当化しようとして、他の人も同じようにやったことを見たと警察官に訴えても、その言い訳に警察官は納得するでしょうか。また前の 10回はこの踏み切りで止まったということを主張して、これからは毎回止まると約束したらどうしょう。それでも今回の過ちは過ちです。 正しいことをしても、今回の過ちを取り除くことはできません。

法律を破ったので罰金を払わないとだめです。止まることは当たり前のことに過ぎません。

本当に、私たち自身のいろんなやり方で自分の罪を取り除くことは不可能です。神の律法を破って、神に対して罪を犯したので神しか罪を赦す 権威を持っていません。非常にいいことに、神は本当に私たちの罪を赦したいと願っておられます。

神は人間に対してなさったことによって、最もすばらしい愛を示してくださいました。
何千年にもわたって、神自身が肉体を持ってこの世に来られ、罪からの救いをもたらされることをイスラエルの預言者を通して預言されました。 その約束(預言)は旧約聖書に書かれています。そして約束されたようになさいました。

彼の生まれるの時代と場所は、預言されていた通りに成就しました。預言の通りに他には見られない奇跡を行いました。この奇跡のニュースは イスラエルと周りの国々に広がりました。

また預言のとおりにイエスはご自分がローマ人に殺されることを許されました。最後に死からよみがえりました。預言者はキリストが死んで三日間の 後に、よみがえると書いています。キリストのよみがえりは歴史的に証明されています。

現代では、この出来事は不思議に思えますが、それはキリストの他には見られないからです。しかし、この出来事は世界の歴史を変えることに なりました。二千年に渡って、キリストの福音の正しさを知った多くの人々は、すべてを捨ててキリストに従いました。

イエス・キリストは自分が神であると主張しました。たくさんの人も同じように神であると主張してきました。しかし、キリスト以外には誰一人として、 すばらしい奇跡やたくさんの成就した預言(300以上)、特に死からのよみがえりによって、自分の主張を証明したことはありません。

イエスはすべての人間の代わりとして生まれて死にました。神の聖なる律法に対して罪を犯した人は死を要求されます。それで、すべての人は 有罪なのです。しかし人間となられた神であるキリストの死は、すべての時代のすべての人の、すべての罪の罰を償うのに十分です。十字架で 死なれたとき、私たち自身が支払うべき罪の罰をご自分で支払ってくださいました。

罪の報いは死なので、キリストは肉体を持って、神のすべての怒りを自分自身に受けられました。それは二つのことを示しています。

  • 1)神は正義の方です。罪は現実のもので無視されることはありません。神は罪を単に無視することはできません。罪に対する罰が あって、その罰は誰かが支払われなければいけません。キリストは十字架での死によって、すべての人のすべての罪に対する罰を自分で 支払われました。
  • 2)神は哀れみ深く、愛のお方です。神は私たちの罪を無視できませんが、私たちを救って、神との交わりを持つようにするために、私たちの 罪を取り除いてくださいました。

神は、すべての人を救いたいと思っておられます。

「罪からくる報酬は死です。しかし、神のくださる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠の命です。」 

ローマ3:23

神の善を理解し、彼がそんな風に死ななければならなかったのは、私自身の罪のせいである事を理解するときこそ、神の愛や私たちの救いの必要を 本当だと認めることができます。

私たちにできることは感謝を持って、神が私たちのためにしてくださったことを素直に受け止めることしかありません。もし、彼のすばらしい永遠の 命と救いという贈り物を受け入れるなら、神が備えて作られた天国で永遠に生きる特権が与えられます。一方で、神の恵み深い贈り物を知りながら、 神の善と救いを知っていながら、それを否定してしまうなら、永遠の命を受けるに価しない者となってしまいます。つまり神がおられない地獄で 永遠を過ごすことを選んでしまうことになります。このことを神は悲しんでおられます。

では罪をどうすればいいのでしょうか?人生で一番大きなこの問題をどうすればいいのでしょう。
解決はキリストです。ある日、ある罪人がイエスに会って何が起こったかご紹介します。

ザアカイは背が低いの男でした。キリストが自分の町を通るのを知っていたようです。しかし、彼のような背が低い人は、人が多いところで、 キリストを見られるはずはありませんでした。そこで木に登ることにしました。高い場所だったら、もしかしたら遠くからでも見える かもしれません。みなが驚いたことに、イエスが通すぐるとき、ザカイを名前で呼んで

「下りてきなさい。今日はあなたの家で泊まるから。」

群衆が驚いたのは、イエスが知り合いではないはずのザアカイの名を知っていたということではありませんでした。(キリストはたくさんの奇跡を 行っていたことですでに有名でした。)その人たちが驚いたのは、イエスがザカイのような人と食事することです。なぜなら、ザカイは収税人 だからです。その時代、イスラエルはローマに支配されました。収税人というのは、国民がローマ皇帝に税金を払うのを確認するようにローマに 雇われた人のです。誰も税金を喜んで払うわけではありません。当時のイスラエルの収税人は特に嫌われていました。なぜなら、国民が払う べき額に上乗せして取りたてていたからです。国民は貧しい生活をしているのに、彼らは金もちになっていました。収税人はどん欲で泥棒である 罪人だと人々に認識されていました。いったいどうしてイエスがそんな人と一諸に食事をしたがるのでしょう。

イエスは自分の評判を気にされませんでした。他の人がやって欲しいと思うことではなく、イエスは正しいことのみをなさいました。イエスの答えは、

「医者を必要とするのは丈夫なものではなく、病人」

でした。

イエスが家で食事の席に着いておられるとき、見よ、収税人や罪びとが大勢に来て、イエスや、その弟子たちと一緒に食卓についていた。すると、 これを見たパリサイ人たちがイエスの弟子たちに言った。

「なぜあなたの先生は収税人や罪びとと一緒に食事をするのですか。」

イエスはこれを聞いて、言われた。

「医者を必要とするのは丈夫なものではなく、病人です。『私は哀れみは好むが、いけにえは好まない。』とはどういう意味か、行って学んで きなさい。私は正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」

マタイ9:10-13

こういうわけで、イエスはザカイの家を選ばれたのです。そこは神が罪を取り除く力をもっておられることを示すためのいいところでした。
ザカイはお金を愛していた人でしたが、イエスに聞いて彼の心は神に変えられました。それで、

「ところが、ザカイは立って、主に言った。『主よ、ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、誰からでも、私は 騙し取った物は、四倍にして返します。』
イエスは彼に言われた。『きょう、救いがこの家に来ました。』」 

ルカ19:8-9

ザカイはまだ何も行動していませんでした。キリストを信じたとき、ザカイの心は神に変えられました。そして、キリストに従う決心をしました。 あとでザカイは神が教えているように行ったに違いありません。ザカイはいつ赦されたかというと、キリストを信じたそのときです。
ザカイのようなお金持ちが、どのようにお金や人生に対する態度を変えられたのでしょうか。キリストを受け入れたからです。世界のすべての 宝物より、その財産を分けることができるほどの自由の方がすばらしいものだと知ったのでした。神が私たちの人生と共にいれば、世界の第一の 宝物は、正しいことをする力だと理解します。

あなたは罪のない人生を送る力がありますか。どん欲でなく、どのような嘘もつかず、誰も憎まず、ねたみを持たない人生を。正しいことを行う理由 と力をもっているのは喜ばしいことです。その喜びと力は神に変えられた心の中にしかありません。ザカイと同じように私たち皆は罪に押しと どめられています。罪は本当に捨てにくいものです。一日だけでも、罪を犯さないことに挑戦してみてください。絶対にできません。キリストの みによって、罪のない人生を経験することができます。それはすばらしい人生です。簡単な人生ではなくても、最もいい人生だと思います。

罪についてもう一つの大事なことを学ばなければなりません。完全な自由と赦しをいただいたなら、神は私たちが他の人の罪を赦すことを要求して おられます。キリストは十字架で死ぬとき、こう叫びました。

「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか、自分で分からないのです。」

私たちは神に対して犯した重大な罪を赦していただいたのに、自分に対して誰かが犯した小さなことを赦さないのは正当なこととはいえない でしょう。神はすべての人たちに完全な赦しと、ただで救いをお与えになるほどの良いお方です。

私たちが他の人を赦さない場合、自分を神より偉い裁き主?としてしまっています。
キリストはこう説明しました。

「しかし、今聞いているあなたがたに、私はこう言います。あなたの敵を愛しなさい。あなたを憎み者に善を行いなさい。あなたをのろうものを 祝福しなさい。あなたを侮辱するもののために祈りなさい。

あなたの片方の頬を打つものには、ほかの頬をも向けなさい。上着を奪い取るものには、下着を拒んではいけません。すべて求めるものには 与えなさい。奪い取るものからは取り戻してはいけません。

自分にしてもらたいと望むとおり、人にもそのようにしなさい。

自分を愛するものを愛したからと言って、あなたがたに何の良いところがあるでしょう。罪びとたちでさえ、自分を愛するものを愛 しています。

自分に良いことをしてくれる者に良いことをしたからといって、あなたがたに何の良いところがあるでしょう。罪びとたちでさえ、同じことを しています。

返してもらうつもりで人に貸してやったからと言って、あなたがたに何の良いところがあるでしょう。貸した分を取り返すつもりなら、 罪びとたちでさえ、罪びとたちに貸しています。

ただ、自分の敵を愛しなさい。彼らに良くしてやり、返してもらうことを考えず貸しなさい。そうすれば、あなたがたの受ける報いはすばらしく、 あなたがたは、いと高き方の子どもになれます。なぜなら、いと高き方は、恩知らずの悪人にも、哀れみ深いからです。

あなたがたの天の父は哀れみ深いように、あなたがたも、哀れみ深くしなさい。

裁いてはいけません。そうすれば、自分も裁かれません。人を罪に定めてはいけません。そうすれば、自分も罪に定められません。赦しなさい。 そうすれば、自分も赦されます。

与えなさい、そうすれば自分も与えられます。人々は量りをよくして、押し付け、ゆすりいれ、あふれるまでにして、懐に入れてくれる でしょう。あなたがたは、人を量る量りで、自分も量り返してもらうからです。」

ルカ6:27-38

これは本当に普通の世の中の考え方と逆です。この教えに納得がいきますか。これに従えば平和をもたらすと思いませんか。この他人に対しての 態度を持っていたら社会に、また私たち自身の心に大きな変化が起こされるのではないでしょうか。

「それは難しすぎ、そんな生活をできるほど力がない。」

と言われるかもしれません。それはそうですね。キリストだけが、この基準に到達されました。しかし、あなたにも信仰によって、キリストを 受けいれて、救いを受ければ、キリストが自分の心にはありえないと思ったような奇跡を行ってくださいます。

世界中にある教会の人々は、迫害されても、苦しめられても、家族や親戚に殺されても、敵を赦していることで有名です。それは自分自身の 力ではなく、彼らの中にあるキリストの力によることです。

結局、罪はどういうことなのでしょう。すべての力をもっておられる神が定められた律法を破ることです。私たちすべては罪を犯したことがあって、 神の裁きが向けられている状態にあるのです。感謝すべきことに、神様は哀れみ深く、この世に来られるとき十字架の死によって私たちの罪を 取り除いてくださいました。そのため、私たちには今赦してもらう権利が与えられています。その選択は私たち一人一人にゆだねられています。 聖書にはこう書いてあります。

「主の名を呼ぶ者は、みな救われる」。

使徒2:21

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